いま私たちは非常にストレスの多い社会のなかで、さまざまな悩みを抱えて暮らしています。子供たちの世界にもさまざまな問題行動が見られ、そこに大人社会の縮図が映し出されてもいます。科学技術が進歩し、高度情報化社会が実現し、生命操作までが可能な時代になりましたが、私たち人間はいまどこに向かって進んでいるのでしょうか?
人間学はこのような疑問に対して、「人間とは何か」という根本を見つめ直すところから迫ります。広大な宇宙を相手にする宇宙科学も、ミクロな生命現象を扱う遺伝子工学も、みな「人間とは何か」という問いと無関係ではありません。多様な学問方法を駆使し人間の根本に切り込むスリリングな知の格闘。それが人間学です。
人間学コースでは古典と呼ばれる文献を通じて偉大な過去の精神的創造に向き合うとともに、さまざまな現場へ踏み出すフィールド教育も実践しています。例えば芸術文化の授業では、芸術家や博物館・美術館での聞き取り調査を行い、身体論の授業では、気功や太極拳、能楽、韓国舞踊の専門家を招いて実演してもらい、アジアの身体について考えています。
上利博規教授「人間らしく生きること」
音楽、数学、哲学と迷いながら進んできた私が落ち着いたところは人間学でした。そして今関心があるのは、芸術的な表現がもつ心打つ強さを考えたり、静岡の街を歩きながら昔の人の想いをたどったり、アジアに暮らす人々の中に日本が置き去りにしてきたものをたずねることなどです。
特に最近よく考えるのは、どうすれば光のあたらない陰の部分を見ることができるかということです。人間の心の奥に隠されたもの、あるいは社会の片隅に追いやられているマイノリティ、さらにはマイノリティと認識されることもなく生まれ死んでゆくたくさんの命。夜のバンコクの路上で、母親に抱かれて死んだように眠るやせ細った子を目にしてからは、あの子はいつまでこの世で生きていくことができるのだろうと思いながら、どうすれば大学の中でより深く人間について考え、語ることができるだろうかと悩んでいます。
人間学って何? いろいろな場でこの質問を受け、いまだ十分な答え方ができたことはありませんが、人間学に属する人はみんな、何が自分にとってより深く大切な問題なのかを探りあてようとしていると思います。知識や理論を覚えるのではなく、自分の力で少しずつ見つけることのできた確かな手ごたえは、卒業後にも心の核となり、生きる支えとなるのではないかと思います。
田中伸司教授「人間学とソクラテスの問い」
わたしたちは何のために生きているのでしょうか。この問いを、ひとに向かって正面から発することはほとんどありません。辛いことがあったとき、そして独りになったときに自問自答することはあるとしても、じぶん以外のひとに問うにはあまりにも重いものだからです。
実際、ふだん、わたしたちは生きる目的をつき詰めて考えようとはしません。むしろ、目の前のことに集中して生きていこうとします。そして、悔いのないようにということばとは裏腹に、わたしたちの生にはつねに悔いが残ります。お金さえ儲かればいい、じぶんだけ良ければいいと思ってはいても、それだけでは充たされません。一時的な楽しい気分を幸せと呼び、欲望のおもむくまま生きようとしても、あるいは好き勝手をやったためにいっそう、そこには「悔い」という道徳的な残余が生じるのです。この事実が人間学の一つの基礎となっています。
ソクラテスという人物は二千四百年前に「わたしたちは何のために生きているのか」という問いを発しました。ひとはじぶんの考えだけで生きようとしますが、「悔い」という倫理的な事実の前にソクラテス的な生き方への吟味へと引き込まれていきます。何のために生きているのか、そしてどのように生きればいいのか。ソクラテスの問いにおいて、わたしたちのそれぞれの生は普遍的な真理と交錯しています。
山下秀智教授「宗教と社会」
私はこれまで、デンマークの宗教思想家キェルケゴールと、日本の浄土真宗の開祖である親鸞の思想を研究してきました。前者は実存哲学の出発点などと言われていますが、実際は、そのようなレッテルでは充分に彼の思想を汲み尽くすことはできません。やはりキリスト教の大きな改革運動の中に、しっかりと位置付けなければならないと思っています。代表的な彼の作品『死に至る病』は、「絶望」という非常に否定的なテーマを問題にしていますが、それは、単に否定的なものに留まらずに、信仰への飛躍を惹き起こす重要な契機でもあります。親鸞もまた、日本思想にはめずらしく否定的な「罪悪深重・煩悩熾盛」(『歎異抄』にある言葉)ということをいわゆる信心への跳躍板として位置付けています。この否定的なものは、必ず自我の崩壊を惹き起こしますが、宗教というと、どうもその辺りまでの理解で留まってしまいます。私は、そこからどのような社会との関わりが生じるのか、非常に関心をもっています。解放の神学や、インドのアンベドカルの思想等がそうしたテーマと関係してきます。ドイツ出身でアメリカで活躍したティリッヒの立場が、「間(はざま)に立つ神学」と言われているように、私も諸科学、諸立場の間に立って、現代が抱える困難な課題に、私なりの一筋の道を見出せればと思っています。
- 山下教授は2010年3月をもって静岡大学を定年退職されました。
浜渦辰ニ教授「人間とケア」
人間は、人と人との間に生まれ、人と人との間に生き、人と人との間に死んでいく。そんなこといまさら言うまでもない、当たり前のことだ、と言われるかも知れない。
しかし、私はどうしてそんなことを語れるようになったのか。間で生まれる、間に生きる、間で死ぬ、とはどういうことなのか。それはどういう意味を持っているのか。
当たり前と思っていたことを考え始めると、私は途方もない問いの前に立たされているように感じる。私が、20世紀を開いた哲学である現象学の創始者フッサールの「間主観性」という問題に取り組んできたのも、そういう素朴な問いが出発点にあった。
この問題の取り組みについて、10年ほど前にひとくぎりをつけた後、それを踏まえて、ケア(care)の問題に取り組み始めた、配慮、気づかい、世話、手当て、介護、看護、など、さまざまに訳すことのできる言葉であるが、一つの訳語を使うことによって、問題をせばめてしまわないよう、むしろ、カタカナ表記を使って考えている。人間を、ホモ・サピエンス(知性をもってヒト)でも、ホモ・ファーベル(道具を使って工作するヒト)でも、ホモ・ルーデンス(遊ぶヒト)でもなく、ホモ・クーランス(ケアをするヒト)、しかも「ケアしケアされる存在」として考えようとしている。
- 浜渦教授は2008年3月をもって静岡大学を退職され、現在は大阪大学大学院文学研究科臨床哲学分野へ所属されています。
人間学コースに迫る100の質問(抜粋)(伊東泰孝君[2009年度卒業]による。)
〈コースの雰囲気は?〉和気藹々としています。学年関係なく同じ講義で話し合ったり発表をまとめたりするので、全員と仲良くなれます。
〈面白いところは?〉様々な講義があるところかな。ディベートとか芸術文化とか。漫才やダンスなんかもしましたよ(笑)
〈大変なところは?〉哲学者が生涯をかけて見出した思想を理解するのはやはり骨が折れますね。
〈卒論のテーマは?〉宗教思想からごみ問題、音楽や漫画までとても幅広いです。スポーツや血液型というテーマもあり得ますよ。
〈先生方は?〉(即答で) 個性が強いです!でも真摯で学生思いの先生方です。
〈ここだけの話〉共同研究室は皆のたまり場です。入ってみれば分かると思いますが、研究室というよりむしろ…。
〈何か一言〉ゆるーく楽しく自由なコースです。少しは伝わりましたか?興味のある方、是非お待ちしています!

